戸越銀座物語
Ⅰ.戸越銀座商店街の特色
東西にほぼ一直線に続く「戸越銀座通り」は、約1.4kmに渡る東京一長い商店の連なる街路として広く知れ渡っています。特に、東京都中央区の本家「銀座」から初めて名称の使用を許された「戸越銀座商店街」は、日本全国に300以上ある「○○銀座」の元祖としてその名を知られています。
さらには、地域住民の皆さんのお引き立てのみならず、新聞・雑誌・テレビなどのマスコミを通じて、あるいは小学生の社会科の教科書にも取り上げられるなど、日本を代表する地域密着型の商店街としての評判をいただいています。
「戸越銀座商店街」ではさまざまなイベントや感謝セールを実施して、活気のある街造りに取り組み、地域のお客様のご愛顧にお応えする努力を続けています。商店街の構成では、物販店が約6割を占め、その他サービス業・飲食店がそれぞれ2割の比率で続いており、生活に密着した商品供給の充実を追及する小売店が中心的役割を担っています。中でも生鮮三品や惣菜などの食料品の物価が安く品揃えも豊富なため、特に夕方には食事の支度のために訪れる買物客でたいへん賑わっています。そのような土地柄から戸越銀座は「山の手の下町」と親しみを込めて呼ばれることもあります。
「戸越銀座通り」は主要道路の国道1号線(第2京浜国道)、中原街道、東急電鉄池上線、都営地下鉄浅草線などと交差する交通の要所に位置しているので、近頃では活発な商店街活動を耳にして遠くから電車やバス等の交通機関を乗り継いで出かけて来る人が増えてきました。東急池上線戸越銀座駅と地下鉄浅草線戸越駅を合わせた乗降客は1日平均で約4万人にものぼり、商店街は地域の皆さまの通勤・通学路としてもご利用いただき、独自に街路灯を設置するなど夜間の通行の安全にも配慮しています。さらには、平日の午後3時~6時、日曜・祝日は午後2時~7時までの人通りが最も集中する時間帯に歩行者天国を実施して、歩行者が安心して道路を通行してお買い物を楽しめる環境を提供しています。
戸越銀座商店街は、正式には東側から順に「戸越銀座銀六商店街振興組合」「戸越銀座商店街振興組合」「戸越銀座商栄会商店街振興組合」の3商店街によって構成され合計で約400店舗が軒を連ねています。3つの商店街は組織の成り立ちから法人としては個々に独立していますが、多くの活動で協調しあって「戸越銀座商店街連合会」の共同事業を実施しています。隣接する商店街が競合するよりも互いに連携を取り合って、地域の消費者の皆さまに対してより質の高いサービスがご提供できるよう努力しています。
その中でも、戸越銀座商店街の中心となる役割を担っているのが「戸越銀座商店街振興組合」です。「戸越銀座商店街振興組合」は戸越銀座を構成する3商店街の中でもちょうど真中に位置して、商店街のアーチにも表示されている「好きですこの街とごしぎんざ」のキャッチフレーズでも知られており、全長550mの間に約200店舗が密集して戸越銀座の中核を形成している商店街です。人通りの面では1日の総通行量が4~5万人を超え、市場規模の面でも戸越銀座を代表する商店街となっています。各商店それぞれが知恵を絞ってお客様のご要望にお応えすることにより、地域の消費者の皆様のご要望にお応えできるよう努力しております。
今後とも皆様の忌憚のないご意見・ご指導・ご鞭撻をいただくことによって、真の意味で日本一住み良い商店街を目指し、地域社会に密着した商業エリアとしての発展を願っております。
Ⅱ.戸越銀座商店街の歴史
「戸越」の名は、古くは室町時代の文書に見られるほどの歴史があるのですが、その地名の由来は定かではありません。一説には「江戸越え」が省略されたとするものがありますが、「谷戸越(やとごえ)」が語源ではないかとする説が有力です。谷戸とは谷筋による境目のことで、戸越には台地の中央に東西に伸びる谷筋が走っていて、この谷戸を越えて人々がこの地に集落を形成していき、地名も「谷」が消えて「戸越」として定着したとする説が妥当のように考えられています。その後近世を経て、明治時代には荏原郡戸越村として行政上も位置づけられ、戸越の地名は現在に至るまで地元に根付いて伝えられてきました。しかしながら、東西に伸びる谷筋が道路として利用されるようになって人通りが次第に増しても、窪地としての土地形状が災いして、雨の後のぬかるみや大水にも悩まされ、大正末期に至るまで商業地としての発展は日の目を見ることがありませんでした。
そのような折に大正12年9月1日関東大震災が発生し、東京都中央区の「銀座」は壊滅的な打撃を負ってしまいました。しかしながら、戸越では周囲に竹薮が多かったせいもあって地盤が強く、被害が最小限で済んだために、この地に新規の商店街を作ろうという機運が高まってきました。ちょうど銀座が痛んだ道路をアスファルト化する舗装工事のためにそれまでの舗道のレンガの敷石を撤去するという話を聞きつけた戸越の人々は、大八車で繰り返し往復して敷石を譲り受けました。人々は道路に治水のための暗渠を造り、雨の後の車輪による轍が往来の妨げとならないように、銀座から譲り受けたレンガの敷石をひとつひとつ通りに並べていきました。昭和2年7月の商店街の発足に当たっては、レンガと共に「銀座」の名称も譲り受けて、「戸越銀座」と名付けられました。
時を同じくして昭和2年8月には、池上本門寺の参詣用に蒲田・池上間で開設されていた池上電鉄が路線延長されて、蒲田・五反田間の全線が目黒蒲田電鉄(現在は東京急行電鉄)池上線として開通することになり、戸越にも初めての駅ができることになりました。駅名は本家の中央区銀座よりも早く、日本で一番初めに「銀座」の名の付く駅として「戸越銀座駅」が開業しました。
戦時中は空襲によって辺り一帯が焼け野原となりましたが、商店街の人たちの復興への意欲が高く、個別の商店による日々の営業努力の積み重ねと、商店街組織としての街路・施設の整備と販売促進の支援を継続して実施することによって、現在のような賑わいを得るに至っています。
昭和43年には都営地下鉄浅草線の「戸越駅」も誕生して、都心への交通の便がさらに良くなり、戸越銀座は暮らしやすい街として住民の人気も高く、商店街への出店希望者が相次いでいるので、比較的空き店舗の少ない街並みとなっています。
平成13年8月から戸越銀座商店街連合会の運営によってスタートした「戸越銀座ネット」(*註)は、単なる商店街のホームページという枠組みを超えて、インターネットを活用した地域情報の窓口(ポータル・サイト)の先駆けとして新聞等でも紹介され、「戸越銀座のことなら知りたい情報がなんでもわかる」と各界からの注目を集めています。